「対話」が大事とは言われますが、
「対話」と「議論」とは、どう違うのでしょうか?
違いがよくわからない…ような気がしますね。
話し合おう、対話しよう・・・と思うけど、どんどん議論になっていませんか?
相手をねじ伏せよう、私の意見を通そう、というスタンスになっていませんか?
議論とは、どちらが勝つか、あるいは一定の結論を出そうとするものではないでしょうか。
対話とは、お互いによく考えを知ろうとするその過程のことを言うのではないでしょうか。
多様な価値観のある個人があつまる組織です。
企業組織は、権威をもとに構成されてきたため、フラットな対話ができにくい場でもあります。
個人と組織は共生できるのでしょうか?
どうしたら、全体観や統一感が高まるのでしょうか?
自分たちの意見を出すこと、それがまず対話の第一歩です。
これが問題なのか?どう問題なのか?どんな現象を起こしているのか?何が困るのか?
これについて思考してしっかりと目の前に出していくことで、だから対話になるのです。
まず、問題そのものがしっかり見えてこないと、誰の目にも共有できるものがないのです。
この問題をしっかり全体で把握でき、それを何とか望ましい方法に変えていこうという皆のエネルギーが集まったときに、
組織の活性とか集団の統一感が生まれてきます。
しかし、問題への見方や、解決方法を話し合おうとすると、人数が多いほど意見が広がります。
別々の方向の意見がでることが望ましいのですが、多くの人は解決の仕方を短絡的(自分の利益しか考えられず)
できれば短絡的に結論にしたいと思ってしまうのです、投票とかじゃんけんとか、または社長に決めてもらい、
話し合わずに解決しようとします。自分は考えなくてもよく、あまり苦労せずに利益を享受できる方に賛成しようとするのですね。
短絡的な結果の出し方は、本当のところ、真の問題解決に至りません。同じ問題が次々に起きてしまうこともあります。
さて、何とか自分たちが話し合いによって解決しようとする時、対話しようとするとき、難しいものです。
皆が、互いに自分が正しい、相手が間違っている、と主張します。
「正しい」と主張した者が、階層的に権威を持つ人や、声や体が大きい、長老である場合など、
その人の主張が常に通ってしまうという、なんとも暴力的な結果を起こしています。ねじ伏せられてしまいます。
それは、強いものが競争に勝つという慣習に沿っているだけで、弱者をより小さくさせ、従わせ、これにより公平感を欠き、
全体の和や居心地よさや目的のために進もうとする意欲を萎えさせてしまいます。
まずは、誰が、何を、考えても、話してもそれは自由であり、すべてを尊重するという態度から始めます。
どんな意見でも出して欲しい、それが私と違うことが歓迎。違いを発見することが対話の第一歩なのです。
その意見をすべてテーブルに出しましょう。
意見を並べて「よく見る」ことが肝心です。
そこから、我々の固定概念や執着や先入観を外してくれる動きが始まります。
誰が言ったか、ではなく、「どんな意見があるか」だけを見る。意見同士が動き合い、集まり、どこか別の方向をつくり出してくれます。
二極対立ではなく、新しく、誰もが共生できる、自組織の本来の目的に沿っている、公平で、納得できる、笑顔のある方向が生まれます。
この対話の流れに、思考や意見の自由な流れをただ観ているだけでも、底にある全体の価値観や存在感に気づかされます。
今なにか小さなことに執着していた自己に気づきます。
全体を観て、そして構造的に整理し、それからどこへ向かうかを見ていくのです。
みなで話し合い、肯定的な幸福な解決策を探していくプロセスです。
この時間を長くかけたいのか、早急に結果を見つけたいのか、によってやりかたや回数は変わりますが、
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